84グランド・チャンピオン・カーニバル
当シリーズで新設されたPWFタッグ王座決定リーグ戦が行われ
昭和59年4月25日、横浜文化体育館における
G馬場、D・F・ジュニア 対 S・ハンセン、B・ブロディ
の公式最終戦が、事実上の王座決定戦となりました。

前年春のリマッチ優勝、暮れの最強タッグ優勝
と、今や全日最強コンビと言っても過言ではない
超ミラクル・パワー・コンビはタイツを黒で統一
一方、対照的に馬場、ドリー組は
赤で揃えております。


そして、そのタイツ色が象徴しているかのように
試合が開始するや、日米正統派組が狂乱ファイトを展開し
鉄柱攻撃でブロディを流血させました。


そして、リング内に戻り
世界の王道・16文キックで王座奪取

…と言いたいところですが
何となんと
ハン、ブロのツームストン・パイル・ドライバーを食らい
場外転落し、更にハンセンのラリアットで完全ノックアウト


リング内ではドリーが孤軍奮闘し
ブロディにスピニング・トー・ホールドを仕掛けるも
ハンセンが乱入し、がら空きとなったドリーの首に
ラリアットをぶちかまします。


これでドリーも完全ノックアウト
完全勝利で超獣コンビが
初代王者に輝きました。


このコンビについては、各々が勝手にやってる感じで
「タッグとしてはハンセン、デビアス組がよかった」とか、
「ブロディ、スヌーカ組の方がいい連携だった」とか
今でもよく言われます。
しかし、私はやはり無敵のハンセン、ブロディ組が大好きでした。
少なくとも83年4月~この84年4月の1年間は
「プロレス界においては、記録にも記憶にも世界最強のタッグチームであった!」
と、断言したいです。
あと、敗れたG馬場は翌日の大宮大会を欠場
これによって、デビュー以来続いていた
連続試合出場が「3764」でストップしました。
何故、馬場が翌日の試合を休んだのか…
①本当に試合ができないほど、首のダメージがひどかったのか
②超獣コンビの技の威力を表現するため、敢えて休んだのか
③他に休まなければならない、別の用事があったのか
私は未だに謎ですね。