猪木信者から見たババ・ザ・ワールド(17)

1984年、新日にストロング・マシンが登場した2年前

 

全日・秋のシリーズである「82ジャイアント・シリーズ」に

 

 

ドリーム・マシーンなる怪覆面男が参戦

 

 

10月24日の北海道・北見大会では

 

B・ブロディと組んで、G馬場、D・F・ジュニアと対戦しました。

 


ドリーに対しては

 

ベンジュラム・バック・ブリーカ-を披露しますも


逆にスピニング・トー・ホールドで返され

 


最後は10分49秒、馬場の16文キックに沈んだのであります。


このD・マシーンについては

 

ブロディを支える脇役に徹していた感もあり

 

あまり評価されてなかったですが

 

この試合でも魅せたベンジュラム・バック・ブリーカ-を得意とし

 

後になって、「セメ〇トでは最強」とも言われた

 

K・N選手が正体と言われています(*ほとんどの方は御存知なんでしょうけど)

 

 

ちなみにD・マシーンになった経緯を

 

本人は著書で以下のように語っています。

 

「フロリダ地区でトップとして活躍しつつ、他のテリトリーからもビッグショーのゲストとして呼ばれるほどK・Nが売れていた時、全日本プロレスから連絡が来た。またもや帰国のオファーだったが、海外部長の米沢さんの口から出たのは意外な言葉だった。
『名前はこっちで付けておくから、マスクを被って外国人として帰ってきてくれ』
ギャラも再び外国人扱いで、週3000ドルと提示された。この時、俺は『ドリーム・マシーン』という新しいキャラクターを与えられる。久々に日本に戻ると、俺は捨てずに持っていたチャン・チュンのマスクを被り、かつてルイジアナでケガした鎖骨を隠すためにワンショルダーのコスチュームを着た。
昔、ある人にこんなことを言われたことがある。
『あの時、Sさんはどうしてマスクマンで帰ってきたんですか?もしK・Nの姿で日本に戻ってきていたら、キラー・カーンやザ・グレート・カブキのように話題になったと思いますよ』
俺がドリーム・マシーンとして全日本に凱旋した82年10月は、まだカブキの日本初上陸前である。確かに、この時に正体不明の外国人マスクマンではなく、ペイントレスラーのK・Nとしてリングに上がっていたら、俺のレスラー人生はまた違ったものになっていたかもしれない。俺はあまり深く考えず、仕事の一つとして全日本のオファーを受けたが、あの格好で毒霧を吹いていたら相当なインパクトがあっただろう。
しかし、馬場さんは俺が日本でオーバーすることなんて望んでいなかったのではないだろうか。NWAの黄金テリトリーのフロリダ地区でトップを取っているK・Nのまま帰国させたら、全日本のリングでもそれに見合った扱いをしなければならない。
だが、俺に上を取られるのは面白くなかったはずだ。馬場さんはアメリカで最も成功した日本人レスラーは自分だという思いがあったから、俺や高千穂さんのようにアメリカでオーバーしたレスラーを快く思っていなかったような気がする。
2年前に素顔で戻った時は日本陣営に組み込まれたので、俺はベビーフェースとしてリングに上がった。だが、今回は完全な外国人扱いである。移動も外国人選手たちと一緒だったので、そこは気分的に楽だった。マスクにしても普段から被ってなんていられないから、会場以外では基本的に素顔でいた。正体がバレたらバレたで仕方ない。そんな気持ちで、俺はドリーム・マシーンという役回りをこなしていた。
(*中略)
このドリーム・マシーンの頃の試合のことは、あまり憶えていない。訳の分からないマスクマンで戻すくらいだから、上を取らせるつもりはまったくなく、馬場さんやジャンボとも対戦したが、完全に格下扱いだった。シングルでは天龍に丸め込まれて負け。国際プロレスから流れてきた阿修羅・原と引き分けというポジションである。
俺はシリーズが終わると、すぐにフロリダに戻り、年が明けて83年の『新春ジャイアント・シリーズ』に再びドリーム・マシーンとして来日した。一応、見せ場を作ってくれたのか、このシリーズではG・ジョーとのコンビで、石川敬士(孝志)と佐藤選手のアジア・タッグ王座に挑戦するタイトルマッチも組まれた。おそらく、これは馬場さんではなく、佐藤選手が作ったカードだろう。
しかし、唐突な感は否めず、こっちのモチベーションも上がらない。なぜ俺は全日本のリングにドリーム・マシーンというマスクマンで呼ばれたのか。馬場さんの意向は最後までわからずじまいだった。
アメリカに戻れば、K・Nとして上の方を任されていた。その一方で、日本に帰ってくるとキャラクターの設定もよく分からないマスクマンとして真ん中辺りの試合でお茶を濁す。俺の中で、そのギャップはあまりにも大きかった。
海外での活躍とは裏腹に、俺は明らかに全日本に求められていなかった。後に俺が新日本プロレスに上がることになるのは、このドリーム・マシーンの件があったことも影響しているのかもしれない」

しかし当時、「K・N」で逆上陸したとして

カブキ並みの人気を得て、会場も大盛況になるかもしれませんが

ギャラはそんなに上がらなかったかもしれません。

 

 

カブキと同様の500円しか…爆笑