阿衡の紛議(888・仁和4年)

藤原良房の後を継いだ養子の藤原基経は仁明天皇の子である55歳の天皇を光孝天皇を即位させた。そして884(元慶8)年に基経は初めて関白となった。光孝天皇が亡くなった後、宇多天皇が即位。正式に関白となった経に「阿衡に任命する」という勅書が出た。阿衡というのは中国では位のみで、職掌を伴わないものであり、基経はこれに抗議をして、半年も政治を行わず、政治自体がストップしてしまった。困った宇多天皇はこの詔を起草した橘広相を処罰し、基経は政治に戻ってきて、権力をに被った。