後白河上皇が院政を始めた頃、院の近臣同士の争いが起こった。1159年、平治の乱である。保元の乱後、院の近臣として、平清盛と結んで実権を握っていたのは藤原通憲(信西)であった。一方、同じく院の近臣である藤原信頼は、源義朝と結んだ。そして何とかして通憲から実権を奪い取ろうと考えていた。ある日、平清盛一行が熊野に参詣をしに行った。そのすきを狙って藤原信頼と源義朝は挙兵をした。義朝は通憲を自殺に追い込んだ。しかし平清盛が反撃をして、信頼・義朝を倒した。この結果、院の近臣の中で有力者は平清盛ただ一人となり、平氏が実権を握った。平清盛は1167年に貴族の中で最高位である太政大臣に就任し、平氏政権は最高潮を迎えた。日宋貿易の利益に加え、多くの荘園や知行国を手に入れて経済基盤としていく。