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治承・寿永の乱(源平の合戦)(1180~1185)

後白河法皇の皇子・以仁王と畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵を挙げ、挙兵を呼びかける以仁王の命令(令旨)が諸国の武士に伝えられた。

これにより、全国の武士たちが次々と挙兵、伊豆に流されていた源頼朝も以仁王の令旨を受け取り、挙兵した。頼朝は初戦は勝ったものの、続く石橋山の戦いでは平氏方の軍に大敗し(1180年8月)、命からがら戦場から脱出した。しかし平氏に不満を持つ関東の武士たちが続々と頼朝のもとに集まり、体制を立て直し、根拠地の富士川の戦いで、平氏を倒した(1180年10月)。この敗北後、平清盛は病死した。

頼朝の挙兵から1ヶ月後、信濃国では頼朝のいとこだった源義仲が挙兵した。いくさ上手と言われた義仲は倶利伽羅峠の戦いで平氏軍を破り(1183年5月)、勢いに乗って京都を奪い、平氏を京都から追い出した。しかし京都での義仲軍の兵は統制がとれておらず、都で乱暴や略奪を働いた。

これにより、後白河法皇は頼朝に義仲を討つように命じた。頼朝はさらにいくさ上手と評判のある弟・源義経を大将とし、もう一人の弟である源範頼とともに義仲を討たせた。

義仲の戦死後、法皇は頼朝に平氏打倒の命令を与えた。「官軍」になった源氏は義経の指揮のもと、一の谷の戦い(1184年2月)、屋島の戦い(1185年2月)で次々と勝利し、ついに壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした(1185年3月)。

源氏が平氏を滅ぼすと、今度は法皇が源氏の勢力拡大を警戒し、源氏を割こうとして、義経を重用し、頼朝と対立させようとした。武士たちは頼朝につき、義経は孤立。奥州藤原氏に身を寄せるも、藤原泰衡に殺害された。その奥州藤原氏も頼朝に滅ぼされ、戦乱は終結した。