1219年、3代将軍の源実朝が鶴岡八幡宮で、2代将軍で兄の源頼家の子・公暁に暗殺されるという事件が起こった。公暁もその日のうちに殺され、源氏の後継者がいなくなってしまった。北条義時は、母方が源氏と遠い親戚にあたる摂関家の藤原頼経を京都から連れてきて4代将軍としようとした。
しかしこの人事に後鳥羽上皇が不満を持った。上皇は1192年に源頼朝を征夷大将軍にした人物であり、北条氏が幕府の実権を握ることに不満を持っていた。そこで全国の武士に北条義時追討の命令を出して、西面の武士を設置した。
一方、東国の武士の大多数は源頼朝の妻であった北条政子の呼びかけに応じて結集し、戦いにのぞんだ。幕府は義時の子の泰時、弟の時房らの率いる軍を送り、京都を攻めた結果、戦いは幕府の圧倒的な勝利に終わった。これにより幕府は仲恭天皇を廃し、後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐(後に阿波)に、順徳上皇を佐渡に流した。また乱後、幕府は皇位の継承に介入するとともに、京都に六波羅探題を置いて、朝廷を監視し、京都内外の警護、及び西国の統轄に当たらせた。