13世紀初頭、チンギス・ハンがモンゴル民族を統一。孫のフビライ・ハンは1271年、中国に元を建国した。その時、朝鮮半島にあった高麗を服属させていて、日本に対しても服属するよう要求してきた。
当時の8代執権・北条時宗は、この服属要求を拒否し、元の襲来に備え、御家人に対して九州北部を警備させ、異国警護番役を課した。
これにフビライは怒り、1274年に日本に攻め込んできた。元は対馬・壱岐を攻め、その後、博多湾に侵入してきた。これが文永の役である。元の軍隊は当時の日本になかった火薬を利用した武器を使うなどしたため、日本軍は苦戦するも、元軍にかなりダメージを与えたため、元軍は撤退した。
幕府は元が再び攻めてくることを警戒し、異国警護番役を強化するとともに、本土に上陸されないようにするため、博多湾に防塁(防御用の石造りの土手)を築いた。