霜月騒動(1285・弘安8年)

蒙古襲来の結果、御家人を中心とした武士による九州の警備が必要となり、鎌倉幕府の支配権も強化され、執権である北条氏の権力も強化されていった。北条氏の中でも得宗と呼ばれる北条氏本家の家筋の権力が強くなっていき、得宗専制政治の時代へと移っていった。

得宗の力が強くなると、得宗の家臣である御内人や御内人の代表である内管領の力も強くなっていく。9代執権・北条貞時の時代となった1285年、当時内管領であった平頼綱が、有力御家人の安達泰盛と対立し、泰盛を滅ぼした。この事件を霜月騒動という。

得宗は権力こそ握っているが、御家人の1人にすぎず、内管領はその御家人の家来である。その家来が有力御家人と対立すること自体が異常であり、いかに得宗家の力が絶大であったかがわかる事件であるが、1293年権力拡大を恐れた貞時は頼綱を討った。