後嵯峨法皇が亡くなると、天皇家は2人の息子が天皇家の実権をめぐって、2つの派閥に分かれていた。亀山天皇は大覚寺統、後深草天皇は持明院統として対立を始めたのである。
この対立の間に入って仲裁したのが鎌倉幕府であり、幕府は両統が交互に天皇に即位していくという両統迭立を決めた。
両統迭立により、大覚寺統の後醍醐天皇が即位した。後醍醐は、醍醐天皇を尊敬しており、醍醐と同じく、天皇が自ら政治を行う天皇親政をやろうとして、記録所を設置した。
しかし当時は鎌倉幕府という存在があり、幕府は得宗専制政治のもと、14代執権の北条高時と内管領の長崎高資が政治を欲しいままにしており、多くの人が幕府への不満を持っていた。そこで後醍醐は「鎌倉幕府を倒そう」と、2回の討幕計画を立てた。それが1324年の正中の変と、1331年の元弘の変であり、計画は2回とも失敗に終わった。後醍醐はその罪で隠岐に流された。