鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は名実ともに天皇親政を行うことができるようになった。1334年、建武の新政の始まりである。後醍醐は新しい政治を行うために、中央に記録所(重要政府を行う)や雑訴決断所(裁判などを行う)などを設置した。
しかしこの親政は、これまで武士社会で造られてきた慣習を無視したこと、また鎌倉幕府滅亡に活躍した武士への恩賞も少なかったこととりわけ最大功労者・足利尊氏が重要な職に就かなかったことがため、武士たちの不満と抵抗を引き起こした。
この頃、尊氏は幕府の再建を考えていたが、そんな中、1335年に北条高時の子である北条時行が鎌倉幕府を再興しようと反乱を起こした。これが中先代の乱である。時行は尊氏の弟・足利直義を破って一時は鎌倉を奪回したが、尊氏に破れた。反乱を平定した尊氏は、さらに建武政権にも反旗を翻した。