6代将軍・足利義教の時代、室町幕府が鎌倉の統治のために設置していた鎌倉府の長官(鎌倉公方)であった足利持氏が義教と対立し、挙兵した。この戦いが1438年の永享の乱である。持氏は義教に討伐され、翌年自害した。
足利義満は1394年、公家の最高位である太政大臣に就任し、室町幕府の権威は最高潮に達した。ここで義満は将軍職を子の義持に譲る。 1399年、6カ国の守護である大内義弘を応永の乱で倒し、有力守護の排除をひとまず終えたのである。 応永の乱は4代将軍・足利義持の時の出来事であるが、大内義弘を倒したのは義満である。
足利義満は1391年、日本国66カ国の内、6分の1にあたる11カ国の守護で、六分の一衆と呼ばれた山氏氏清を倒した。これを明徳の乱という。 この翌年、義満は南北朝の合体を行った。この合体は、南朝の後亀山天皇が後小松天皇に位を譲るという形で成立した。
室町幕府3代将軍・足利義満(尊氏の孫)の頃には、旧直義派、南朝勢力の急速に力を失っていき、義満は権力を拡大していった。義満にとって、ライバルとなるのは当時何カ国も支配を行っていた有力守護であった。 そこで義満は室町幕府に権力を集中させるため、有力守護に排除を行った。まず1390年、美濃・伊勢・尾張の守護であった土岐康行を討伐した。
京都の北朝・足利尊氏の政治は順風満帆というわけにはいかなかった。南朝側では、動乱の初期に北畠親房らが中心となり、東北・関東・九州に拠点を置いて、抗戦を続けた。 そんな南朝と対抗しながら、尊氏は更に弟の足利直義とも対立していった。...
1336年、足利尊氏は湊川の戦いで、有力武将・楠木正成を破り、京都を制圧・同年に自らの手で持明院統の光明天皇を即位させ、室町幕府の基本方針である建武式目を発表(*是円らが尊氏の質問に答える形)した。その後、1338年に光明天皇から征夷大将軍に任命。室町幕府の成立、初代将軍・足利尊氏の誕生となった。...
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は名実ともに天皇親政を行うことができるようになった。1334年、建武の新政の始まりである。後醍醐は新しい政治を行うために、中央に記録所(重要政府を行う)や雑訴決断所(裁判などを行う)などを設置した。...
後醍醐天皇が隠岐に流された後、鎌倉幕府は光厳天皇を即位させた。人々はこれを幕府の横暴と考え、「幕府を倒そう」という動きが出てきた。後醍醐天皇の子・護良親王や楠木正成らは、悪党などの反駁勢力を結集して、幕府軍と粘り強く戦った。天皇が隠岐を脱出すると、天皇の呼びかけに応じて討幕に立ち上がるものが増え、幕府の指揮官として畿内に派遣された有力御家人・足利高氏(のち尊氏)も幕府に背いて六波羅探題を攻め落とした。関東で挙兵した新田義貞も間もなく鎌倉を攻めて得宗の北条高時以下を滅ぼし、1333年、鎌倉幕府は滅亡した。
後嵯峨法皇が亡くなると、天皇家は2人の息子が天皇家の実権をめぐって、2つの派閥に分かれていた。亀山天皇は大覚寺統、後深草天皇は持明院統として対立を始めたのである。 この対立の間に入って仲裁したのが鎌倉幕府であり、幕府は両統が交互に天皇に即位していくという両統迭立を決めた。...
2024/09/28
蒙古襲来の結果、御家人を中心とした武士による九州の警備が必要となり、鎌倉幕府の支配権も強化され、執権である北条氏の権力も強化されていった。北条氏の中でも得宗と呼ばれる北条氏本家の家筋の権力が強くなっていき、得宗専制政治の時代へと移っていった。...